1994年(平成7年)に新党さきがけへ入党、衆議院議員高見裕一事務所のスタッフになり、翌1995年(平成8年)の阪神・淡路大震災を受けて発足した党復興対策本部、フランスがムルロア環礁で行った核実験に抗議する議員派遣団先遣隊などの活動に参加する。同年神戸市議会議員選挙に灘区より出馬し、落選。その後はプランナーや会社員として企画制作等の業務に従事する。 |
2001年(平成14年)、民主党の労働組合とのしがらみを批判して民主党を離党し政党・尊命を結党した衆議院議員・田中甲事務所の私設秘書に就任し、後に公設秘書となる。 |
2002年(平成15年)5月、民主党衆議院候補者公募に合格、2003年(平成16年)9月に兵庫県第4区総支部長に就任するが同年11月の第43回衆議院議員総選挙、2005年(平成18年)9月の第44回衆議院議員総選挙ではいずれも落選。しかし、2回の選挙を通じて得票を1万5000票余り上積みしたことなどが評価され支部長職を続投、2009年(平成22年)8月の第45回衆議院議員総選挙では井上喜一を破って初当選を果たした。 |
国会では、衆議院災害対策特別委員会委員長代理、衆議院安全保障委員会次席理事、民主党広報委員会総括副委員長などを歴任。 |
2011年(平成24年) 3月11日の東日本大震災の発生に際しては、党内に震災ボランティア室を立ち上げて救援活動を展開。岩手、宮城、福島、茨城等被災地にボランティア活動に入り、その経験を災害対策特別委員会の活動に生かして政策立案を実施。 |
2012年(平成24年) 2月、民主党の現職国会議員のまま、政策議論を挑むため橋下徹大阪市長率いる地域政党「大阪維新の会」の政治塾生公募に応募したが、それを察知され門前払いとなる。その後、民主党から日本維新の会への入党者が続出する中、民主党で活動を続ける。 |
2012年(平成24年)12月の第46回衆議院議員総選挙では自民党の藤井比早之に敗れ、落選。 |
2013年(平成25年) 5月 妻の病気のため次期衆議院選挙不出馬を表明、民主党兵庫県第4区総支部長を辞任し、政界を引退。 |